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元バレンシアのクラウディオ・ロペスのインタビュー「ラニエリとのあのシーズンは特別だった」

クラウディオ・"ピオホ"・ロペスはバルセロナにとっての悪夢でした。バレンシアに在籍した4年間でバルセロナを相手に12ゴールを記録したこの元アルゼンチン代表選手は今、バレンシアに戻ってきています。

元バレンシアのクラウディオ・ロペスのインタビュー「ラニエリとのあのシーズンは特別だった」

「クラウディオ、写真をお願い!」 カーサ・パタコナ(レストラン)のウェイターが彼にそうお願いし、その後、数人の客が彼女と同じお願いをする。遊歩道でスポーツをしていた少年は彼を見て固まり、少女は自分の父親のために彼にサインを求める...。バレンシアの街では誰もが彼のことを知っており、彼のことを覚えていない人は居ません。そんなピオホが、Diario ASのインタビューで自身の人生とサッカーについて振り返りました。


──何があなたを再びバレンシアに連れ戻したのでしょうか?
「30年くらい前、僕は自分の夢を追いかけてこの街に来た。今はサッカー選手になりたい息子・ホアキンの夢を追いかけている。彼をサポートし、彼に寄り添うためにここに来たんだ。ここバレンシアが家族で過ごすには最高の街であることを良く知っているからね」

──息子さんもストライカーですね。
「そう、彼は苦しむことを選んだ(笑) 彼は今CDロダ(ビジャレアルに本拠地を置くチーム。現・RFEF3部リーグ)に在籍している。ロダは僕たちのために扉を開いてくれた。彼がこのチャンスを生かしてくれるといいなと思ってる」

──ロダに加えて、"エル・グアヘ"・ビジャがあなたにベニドルムでの扉も開きましたよね?
「そうそう。ホアキンの応援のために1人でバレンシアに来るのは嫌だった(笑) 僕は常にサッカーの世界とつながってきたし、ここでサッカーの世界に戻りたいと思っていたんだ。アメリカでビクトル・オニャテ(DV7グループ)とダビド・ビジャと知り合った。当時、僕はコロラド・ラピッズのスポーツディレクターとして働いていて、ビジャはニューヨーク・シティでプレーしていた。そしてスペインに戻った時に、友人のカルロス・ウルティア(代理人業)のおかげでビジャたちとの関係を深められた。そしてDV7グループに入社し、スポーツアドバイザーとして彼らのクラブであるCFベニドルムに関わることになった」

──ベニドルムで行っているプロジェクトについて教えてもらえますか?
「会社としてはいくつかのスクールを持っていて、僕は自分自身の経験を活かして貢献しようとしてる。そのプロジェクトの重要な中心地となるのがベニドルムだ。急いでも居ないし、すぐに結果を求める必要もないという点では興味深いプロジェクトだと思ってる。つまり中長期的に成長するための強固な基盤を構築することができるということだ」

──あなたの役割を具体的に教えてもらえますか?
「僕の仕事はスポーツディレクターみたいなものだ。うちの会社が持つ世界中のアカデミー(日本、アメリカ、ドミニカ、プエルトリコ、スペイン)でプレーする選手たちや、ベニドルムでプレーする選手たちにアドバイスをし、サポートをしている。僕たちのアイデアはスペインサッカー界で可能な限り最高のレベルに到達するためのプロジェクトを立ち上げ、ポテンシャルを秘めた私たちのアカデミーの選手たちの着地点としてそこを活用することだ。ベニドルムでは彼らにスペインの文化、生活、サッカーに慣れてもらう。ただ、繰り返しになるけど、これは急ぐ必要のないプロジェクトなんだ。だからこそより興味深いものになる」

──サッカー界でのあなたの経験に基づいて、子供たちに与える最初のアドバイスは何ですか?
「サッカー面よりも、感情面の成長を促すようにしたいと思っている。子供たちは常にサポートを必要としていて、悪い試合やミスなどの後はネガティブな感情にとらわれないようにする必要がある。15~16歳までの子供たちは本来、楽しくサッカーをすべきであり、ピッチにいる時は幸せでなければならないんだ。そういう要素は彼らから熱意を奪わず、成長・改善するための原動力になる。ミスを責めるだけだと彼らの意欲と熱意は低下してしまうだろう。彼らにとっての幸せを見つけるにはどのようにすべきかを学ばなければならない。そしてほとんどの場合、家族が彼らにとってのモチベーションとなる」

──今の最後の言葉は"スタンドに居る親たち"に向けられたものだと思いますが、ホアキンを見る時のあなたはどのように過ごしていますか?
「息子の試合を見る時はナーバスになるし、感情を抑えることが難しくなるという点で僕も他の親と変わらないけど、僕が根本的に望んでいることは、"彼の喜ぶ顔が見たい"ということだ。父親としては、彼が楽しそうにサッカーをしているか、そのことだけを心配している。現代サッカーでは時間が短縮されてきていることは理解しているけど、少なくとも15歳まではサッカーを愛し、ミスに執着する生き方はすべきでないと思っているよ」

──時間の短縮とはどのような意味ですか?
「育成のための時間が短縮している。今のサッカー界では、クラブ、代理人、家族、そして子供たちが共通して抱えている目標はただ一つ、どんなことをしてでもトップリーグでプレーし、経済的メリットの大きい契約を結ぶことだ。ただ、全ての選手がその年齢でプレーする準備ができているわけではないのに、年齢に見合わない多くのフラストレーションを浴びせられることになってしまっている」

──あなたの場合、18歳でプロデビューし、バレンシアにやってきたのは22歳の時でした。
「現代サッカーでは18歳でヨーロッパに居ない場合、多くの人がその選手にもう価値がないと考えている。まだ基礎が固まる前の年齢だというのに。以前は、僕もそうだったけどまずは自分が所属するアカデミーのトップチームに昇格しなければならなかった。そのチームでレギュラーとなった後に、別のクラブかヨーロッパに行く可能性を探し始めた。今はその時間が短縮されている。確かに今は、昔には存在しなかった世界中のサッカーを繋ぐシステムがあり、どの国のどの試合、どんな大会にもアクセスできるようになった。その結果、スカウトは今、世界中の15歳の少年を探し歩いている。その道には確実なものもあるとは思うけど、不確実なものもたくさんある」

──若い選手たちに賭ける傾向は確かに増えています。バレンシアにはQuinta de Pipo、バルセロナにはヤマル、バルデ、ギウ、フェルミン、マドリーのベリンガムもまだ20歳です...。
「これまでも優秀な若者は常に輝いていた。しかし、誰もがその才能を持っているわけではないし、誰もが18歳で才能を活用できる環境に居るわけでもない。それでもクラブは経済的な理由も含めて選手の放出を急いでいる。以前は17~18歳、もっと前は20~21歳の選手で行われていたことが、今は14~15歳の選手に行われている。彼らを獲得したクラブはそのプロセスを加速し、選手たちが早くに完成された存在になることを求めている。僕の時代は常に自分が育ったクラブに基礎があった。まずはそこで成長し、自分のクラブに信頼して賭けてもらえるように成長する必要があった」

──バラハのバレンシアについてはどう思いますか?
「クラブが近年経験した状況によって、若手の獲得プロセスが加速していると感じている。若い子たちが可能な限り最善の方法で競い合い飛躍的に成長している。彼らは今、これまで経験したことのない新しい世界に遭遇し、そこで戦うための準備をしているはずだ。まだ準備ができていなかった彼らを率いているからこそ、彼らのやっていることは注目に値するのだと思うよ」

──バラハの際立っている点はどこだと思いますか?
「僕が22歳でバレンシアに来た時、ロッカールームにはパコ・カマラサが居た。彼やフェルナンド・ゴメスのようなベテラン選手たちからエスクードの重みを教わったし、彼らの経験を還元してもらえた。今のバレンシアにはそういう選手はほとんどいない。ガヤもいるけど、彼だってまだ28歳だ。そんな中で若い彼らが大きな飛躍を遂げているのは、ルベン・バラハという存在が彼らに必要なものを与え、彼らに道を示しているからじゃないかな」


──バレンシアはあなたが今まで過ごした中で最も幸せな場所ですか?
「幸運なことに、僕はこれまで在籍した全てのクラブで良いシーズンを過ごし、どこに行ってもファンに愛情を注いでもらえた。どこに居ても自分の持てる全てを注ぎ込んできたし、その仕事を評価してもらえたんだろうね。バレンシアでは間違いなく素晴らしい時間を過ごした。あの4年間は僕のキャリアを話すうえでのキーポイントだし、この街で僕は多くの人の家族の一員であるかのように感じられている。僕らはメスタージャで素晴らしい午後を過ごした。メスタージャでゴールを決めて叫ぶのは唯一無二の感情だった」

──でもバレンシアでの最初のシーズンは苦労しましたね...。
「本当に。最初は大変だった。アルゼンチンに戻るという話もあったけど、僕は少し頑固だったからそのまま残った。頭の中では物事を明確にしていたよ。僕の夢はトップリーグでデビューし、活躍し、ヨーロッパに行くことだった。だからもう戻れなかった。頑固な性格も僕のキャリアにおけるキーポイントかもしれないね」

──クラブはあなたを戻すことを考えたのでしょうか?
「それはわからないけど、最初の年に適応に苦労したのは間違いなかった。バレンシアでの僕の歴史は、僕に賭けてくれたヘスス・マルティネス(当時のスポーツディレクター)とパコ・ロッチ(当時の会長)のおかげだ。ルイス(・アラゴネス/当時の監督)のことは自分の仕事で説得した。バレンシアでの最初の週が終わった後、監督室に呼ばれたことをよく覚えてる。"聞いてくれ。君はスポーツディレクターと会長の手によってここに来たわけで、私が君を求めたわけじゃないことは知っているだろう。だが、君がしている努力は私を説得するのに充分だということも同時に知っていてほしい。だからこそ私は君にチャンスを与えている"ってね」

──それに対して何と答えましたか?
「頭を下げて部屋を出て、仕事を続けたよ(笑)」

──ヘスス・マルティネスは、ルイス・アラゴネスがあなたをFWとして見ていなかったと言っていました。
「その話には裏話がある。ラシンに行く前に、僕はいくつかのクラブのテストに合格した。そのうちのひとつがビエルサが監督で、(ホルヘ・)グリファがユースディレクターをしていたニューウェルズ・オールドボーイズだった。グリファは僕と契約したがったけど、居住権の問題で当時の僕の保有権を持っていたマヌエル・パティーニョが断ったんだ。その後グリファは僕に挨拶すらしてくれなくなり、"あいつはFWじゃなく、左サイドの選手だ"と言いだした。実際、代表チームではビエルサの時はほとんどウインガーとしてプレーしていたからね。でもアルゼンチンユース代表の時は(マルセロ・)デルガドや(エルナン・)クレスポらと共に常にFWでプレーしていた。なんでこんな話をしたかっていうと、ルイスはグリファの友人で、バレンシアが僕と契約した時に僕がFWじゃないと言ったのは彼だったことを後で知ったからだ」

──まぁ、プロとして738試合に出場し215ゴールを決めた選手をFWではないと呼ぶかどうかは皆が判断するでしょう。1998/99シーズンには37ゴールも決めていますからね。このシーズンがあなたにとって最高のシーズンだったのでしょうか?
「ラニエリとのあのシーズンは特別だった。僕らは結束したチームであり、沢山のゴールはグループとしての仕事の成果だった。ラニエリはグループで取り組むことでチームがより良くなることを知っていて、チームの利益のために全員の長所を活用した」

──バレンシアの選手としてあなたはバルセロナ相手に12ゴールを決めました。そのことについてファン・ハールやバルサの選手と話したことはありますか?
「いや、ファン・ハールとも他の選手とも一度もないよ。でもバルサとの試合は忘れられないものばかりだ。正直に言って僕にとってバルサ戦は出来過ぎていたと思う。バルサはオープンなプレーをするチームだから、僕らの持ち味だったスピードがうまくハマったんだと思う。彼らのスタイルのおかげで僕らの長所が活きたんだ。特にカンプ・ノウで3-0から20分で3-4に逆転勝ちした試合は忘れられない」

──アラゴネス、ビエルサ、ラニエリについて話してくれましたが、どの監督があなたに最も影響を与えましたか?
「全員かな。彼らはそれぞれサッカーについての考え方や見方、プレースタイルが異なるので、いろいろな形でサッカーを学んだよ。例えばラニエリは僕に良く話しかけてくれて、僕がバレンシアに何を提供できるかを理解し、僕を活かしてくれた。アルゼンチンのパサレラ、ガジェゴ、サーベドラは僕を理解し、代表チームとは何かを理解させ、物事をうまくやるように教育してくれた。ビエルサも彼のスタイルと指導で...どの監督のことも覚えているよ」

──現代サッカーで自分に似ていると感じる選手はいますか?
「沢山いるんじゃないかな。今の選手たちはとても速い。それこそ僕よりも。加えてサッカーは変化している。選手の特徴を一言で表すのは難しいし、比較されるのも気分の良いものではないんじゃないかな」

──現代サッカーにクラウディオ・ロペスが居たら、適応できているでしょうか?
「うん、できるはずだ。現役時代の身体を維持できていれば(笑) 僕の特性、プレースタイル、ポジションなら現在サッカーでも居場所はあると思う」

──もしタイムマシンがあったら、もう一度プレーしたい試合は何ですか?
「たくさんある...(少し考えて) でも特別に選ぶならレアル・マドリーとのパリでのチャンピオンズリーグ決勝(00年5月、0-3で敗戦)と、2002年のワールドカップかな」

──セビージャでのアトレティコとの国王杯決勝(99年6月、3-0で勝利)を選ぶかと思いました。
「タイムマシンがあったとして、変えたいものは悲しみ。僕らの運を変えたい試合だ。セビージャでの決勝戦は永遠に残るものであり、あの試合は僕らから何も奪わない。上手くいったもの、楽しかったものを繰り返す必要はない。ただ思い出すだけで良いんだよ」


──アルゼンチン代表が再び栄光の道を歩み始めました。あなたの世代には何が欠けていたのでしょうか?
「プロセスをうまく終わらせる必要があった。僕らは何年にもわたって作り上げられて、予選でも完璧な結果を残した素晴らしいチームだった。でも本大会では何もかもが上手くいかなかった。全員にとって大きな痛みだった」

──昨年からのアルゼンチン代表の成功に驚いていますか?
「全く。僕らはアルゼンチン人として、ずっと彼らに期待してきたから。さらなる成功に期待しているから、次の大会も楽しみだ」

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