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メスタージャ・スタジアム

Estadio de Mestalla

クラブ創設 ~メスタージャの誕生

クラブ創設当初はアルヒロス(Algiros)という場所で8,000人収容、ピッチの規格も当時の規定より大幅に狭い91×47mのスタジアムを本拠地としていましたが、 リーグの規格に合わないという理由から新しいスタジアムが必要となり、1923年に100×59mの土のピッチに17,000人収容のスタンドを備えたメスタージャ・スタジアムが建設されました。 ちなみに「メスタージャ」は、元々は市内を流れるトゥリア(Turia)川から市街地に引かれていた主要な用水路の名前で、当時の会長であるラモン・レオナルテ氏によってスタジアムにその名が付けられています。

こけら落としは同年の5/20、同じバレンシア市を本拠地とするレバンテを招いて行われました。この試合、バレンシアはモンテスのゴールにより1-0で勝利。 新スタジアム誕生を見事な勝利で飾りました。そしてここから長く輝かしいメスタージャの歴史が始まったのです。

そしてこのシーズン、バレンシア州リーグで初優勝を果たしたバレンシアは、翌シーズンこそ2位に終わったものの、1924/1925シーズンから州リーグ4連覇を達成。 メスタージャも1925年に初の代表戦が開催されるなど、スタジアムとしてのプライオリティを上げ始めました。

1930年 ~内戦後のメスタージャと黄金期

1930/1931シーズンには2部リーグで優勝し、初の1部昇格を決めるなどメスタージャと共に順調に成績を伸ばしてきたバレンシアでしたが、1936年7月に始まったスペイン内戦により リーグは中断、所属選手も兵役に駆り出される羽目に。そして1939年4月、内戦が終結した時には所属選手のほとんどが戦死、メスタージャも数々の爆撃で大部分が崩壊してしまっていました。

内戦が終わり、スペイン各地が復興に努める中、クラブはバレンシアCFと改名し、スタジアムの改修に着手。そしてメスタージャは25,000人収容のスタジアムに生まれ変わりました。 そして当時の会長であるルイス・カサノバ氏の元、この新メスタージャと共にクラブの黄金期が始まる事になるのです。

まずは1940/1941シーズン。国王杯で優勝し、初のメジャータイトルを獲得すると、翌41/42シーズンにはデランテラ・エレクトリカを引っさげてリーグ優勝も達成。 結局1940年から1950年までの10年間で、リーグ戦では優勝3度に準優勝を2度、国王杯でも優勝2度に準優勝を3度と国内屈指の強豪チームとして一躍名を挙げました。

1957年 ~天災を乗り越えたルイス・カサノバの功績

1957年10月、トゥリア川の氾濫により洪水が発生し、バレンシア市内のあちこちで浸水が起こりました。当然、その被害はメスタージャにも及びました。 ピッチはおろか、ロッカールームや観客席にまで浸水が及び、スタジアムが使えなくなってしまったのです。 それでもカサノバ氏は下を向く事なく、スタジアムの修繕工事に着手。そしてこの修繕工事でメスタージャは元の姿を取り戻すだけでなく、1959年3月、照明設備を整えた45,500人収容のスタジアムへと生まれ変わりました。 カサノバ氏はこのスタジアム建設を自身最後の大仕事と位置づけており、スタジアム完成後まもなく会長職を退いています。

60年代に入り、フェアーズカップ(旧UEFAカップ)初出場で優勝、2連覇し、バレンシアは欧州の舞台でもその名を轟かせるようになりました。 そして1969年、クラブはこれまでのバレンシアに最も貢献してきた会長であるカサノバ氏を讃え、メスタージャを「ルイス・カサノバ・スタジアム」と改名しました。 同時に、ここから25年間「メスタージャ」という名前がファンの間から聞かれなくなります。

1970年 ~経営破綻

1970年代前半をディ・ステファノ監督の指導力で、1970年代後半を“エル・マタドール”ケンペスの活躍により変わらず強豪としての地位をキープしてきたバレンシア。 1982年にスペインでワールドカップが開催される事が決まると、クラブは徐々に迷走を始めるようになります。

きっかけは、ルイス・カサノバ・スタジアムがワールドカップ本大会の会場に選ばれた事でした。 当時の会長ホセ・ラモン・コスタ氏は、世界中の来賓を迎えるに相応しいスタジアムとするべく、スタジアムの改修工事を始めたのです。 この改修工事によりスタジアムにはVIPルーム、トロフィールーム、テラス席などの設備が置かれたのですが、この工事によりクラブは多額の借金を抱える事となります。

借金の額が増えるにつれ成績をどんどん落としていくバレンシア。1985年にはとうとう破産。1985/1986シーズンには監督も雇えない事態となり、屈辱の2部降格となってしまいました。

1986年 ~復権への軌跡

堕ちたバレンシアを救ったのは2人の男。破産したクラブの負債を肩代わりしたアルトゥロ・トゥソン会長と帰ってきたディ・ステファノ監督です。 財政面と技術面の不安が消えたバレンシアは1年で1部に復帰。フェルナンド・ゴメスを中心に昇格2年目にはUEFAカップの出場権を獲得し、昇格3年目にはリーグ戦で2位に食い込む快進撃を見せたのでした。

クラブは財政面で落ちぶれたものの、スタジアムとしてはハイレベルを維持していたルイス・カサノバ・スタジアム。1992年にはバルセロナ五輪のサッカー競技の会場に選ばれ、日の目を浴びました。

1994年 ~メスタージャ再び

1994年、ルイス・カサノバ氏が「自分の名前がスタジアムについている事をプレッシャーに感じている」と発言した事を機に、スタジアムの名前をメスタージャに戻しました。

1998年、当時の会長フランシスコ・ロイグ氏がメスタージャに鋭角な3階席を設置。メスタージャは55,000人収容のスタジアムとなり、UEFAチャンピオンズリーグ2年連続準優勝、 2度のリーグ制覇、UEFAカップ優勝、UEFAスーパーカップ優勝など、近年のバレンシアの成功の舞台としてその役目を果たしてきました。

2006年 ~ノウ・メスタージャ

2006年11月、当時の会長ファン・バウティスタ・ソレールが73,000人収容の新スタジアム「ノウ・メスタージャ」を建設する事を発表。2007年8月より工事が着手されていますが、 この工事の影響で、クラブは再び莫大な借金を抱える羽目になりました。当初は2009年9月の完成予定でしたが、財政難による現場の従業員への賃金未払い問題が発生し、工事は大幅に遅れているようです。

※ 2008.12.23更新 参考文献…バレンシアCFオフィシャルサイト、ciberche.net

メスタージャ・スタジアムへのアクセス

ノルテ駅(Estacio del Nord)から
  • ≪ 電車の場合 ≫
    ノルテ駅を出て、すぐそばにある地下鉄シャティバ駅(Xàtiva)へ。地下鉄5号線 マリティム・セレリア(Marítim Serrería)方面の電車に乗り、3つめのアラゴーン駅(Aragón)で降りる。駅を出たら目の前。片道1.50ユーロ。
  • ≪ 徒歩の場合 ≫
    ノルテ駅を出て、右にずっと道なりまっすぐ。(下の地図参照)所要時間は20分~25分。
マニセス空港から
  • 空港駅(Aeroport)から地下鉄5号線 マリティム・セレリア(Marítim Serrería)方面の電車に乗り、約30分。14個目のアラゴーン駅(Aragon)で降りる。駅を出たら目の前。片道3.90ユーロ。

※2017年5月更新

Estadio de Mestalla
Avenida de Suecia, S/N, 46010 Valencia

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