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元バレンシアのネルソン・バルデスのインタビュー「アルデレーテは息子のような存在」

ネルソン・アエド・バルデスは、これまでにバレンシアのシャツを着た11人のパラグアイ人選手の中の最後の選手にあたります。

この"グアラニのライオン"は、セロ・ポルテーニョを退団してから半年経過した先日、38歳で現役引退して代理人業に専念することを発表しました。バルデスがスペインでプレーしたのはエルクレスとバレンシアでのわずか2年間ですが、両方のチームで確かな足跡を残しました。加えて彼は、南アフリカワールドカップの準々決勝:スペインvsパラグアイの主人公のひとりです。

元バレンシアのネルソン・バルデスのインタビュー「アルデレーテは息子のような存在」

先日バレンシアへの加入が発表され"12番目のパラグアイ人選手"となったオマール・アルデレーテを「息子のような存在」と語るバルデスが、アルデレーテのことに加え、自身のキャリアの始まりから引退まで、そしてワールドカップの思い出についてDiario ASに語りました。

──現役引退して数日経ちましたが、いかがですか?
「12月には引退することを決めていたんだ。ただ、自分を納得させることが非常に難しい決断なので、次の一歩を踏み出すために6ヶ月の準備をした。そして家族と一緒に次のステージに踏み出したんだ」

──引退を決めてから、パラグアイでの最初の頃を思い出しましたか?
「そうだね。6か月の間に、これまで生きてきて苦しかったこと、楽しかったこと、全てを振り返ったと思う。今では自分のルーツをとても大切に思うよ。俺はすごく小さな村(サン・ホアキン)の出身だからいろいろなことが難しかった。誰も俺がサッカーに人生を捧げるなんて想像しなかったはずだ。特にあの村に住む14~15歳の子供がサッカー選手になるなんてとても難しいことだった」

──あなたがスタジアムのスタンド下に住まなければならない時期があったという逸話もありますが、これは事実ですか?
「間違いなく事実だ。首都アスンシオンに出てからそんな暮らしをしていた。13歳の時に父にサッカー選手になりたいと言い、朝4時に起きて村の中を走り回っていた。村の人たちに鶏泥棒に間違われたりしながらね。誰も俺がプロのサッカー選手になるなんて信じてなかった。15歳の時に村を出てアスンシオンに向かった。そこで入団したアトレティコ・テンベタリーのスタジアムの客席スタンドの階段下の吹き抜けに段ボールと毛布を敷いて1年半住んでいた」

──2002年にヴェルダー・ブレーメンと契約したことであなたのキャリアは大きく変わりました。どのような感じでしたか?
「とても複雑だった。17歳の時にIntermedia(パラグアイ2部リーグ)で得点王になって、クルブ・グアラニー(パラグアイ1部リーグ)の入団テストを受けた。練習試合でゴールを決め、契約してもらえると思っていたのに、新しく来た監督に"経験豊富な選手が欲しいからお前のような若者は必要ない"と言われて契約を見送られた。その1週間後にドイツでテストを受けてブレーメンに残ることになった。その2年後、グアラニーで俺をいらないと言った監督が、パラグアイ代表チームに俺を呼んだ。紆余曲折があったわけだ」

──ドイツへのステップはあなたの人生も変えましたね。
「まさに。俺たちが今住んでいるのもブレーメンだ。この街で妻と出会い、長男が生まれた。ブレーメンでもボルシアでも良いキャリアを過ごしたよ」

──そこからスペインにやってきました。エルクレスに加入してからわずか数日後...
「カンプ・ノウでのことかな(笑)」

──はい、エルクレスはあなたの2ゴールでバルセロナを破りました。私たちDiario ASは表紙に「Valdezazo」というタイトルを付けました。
「そうそう、Valdezazo。そして君たちは俺にその写真を送ってくれた。息子はその写真を大事にとっておいてSNSに載せているよ。4~5年前だったかな、俺はメッシのチームに勝ったことがあると息子に話したが、全然信じてくれなかった。当時はまだ幼くて何も理解していなかったからね。でも今はアーカイブがあるから証明することが出来たよ」

──それが南アフリカワールドカップであなたたちパラグアイがスペインに敗れて数か月後のことだったので...
「そう、バルセロナにスペイン代表のメンバーが多かったこともあってパラグアイでは"バルデスがカンプ・ノウでのダブルで代表チームのリベンジを果たした"と言われたんだ。エルクレスがカンプ・ノウでバルセロナを破ったことはまさに偉業と言って良いと思う。俺は2ゴールを決めたけど、試合のほとんどの数字はGKのカラタユが関与したものだった。あの日、俺たちがどれだけ守備に命を懸けたか想像してみてよ」

──南アフリカでのスペインとの試合といえば、カルドソのPKが決まっていたらどうなっていたでしょうか。
「その試合のことでいつも思い出すのは、俺のゴールが認められていたらどうなっていただろうということだ。なぜ取り消されたのかわからない。あの頃にVARがあったかどうかわからないけど、あれは試合の序盤のことだった。カルドソのPKは後半のことだ。もし前半の俺のゴールが認められていたら、おそらく俺たちは守りきれたと思う。残念ながらパラグアイでは彼のミスは今でも許されていない。でもそれもサッカーの一部であり、勇敢な者だけが経験することだ。いつでもPKをミスした者は責められるが、誰もがそれを許す勇気を持たなければならない。バッジョ、マラドーナ、メッシ、ロナウド、最近ではエムバペやモラタなど千を超える例があるのだから」
2010 FIFA World Cup: Paraguay v Spain ハイライト

──その翌年、コパアメリカで準優勝しました。
「決勝まで進んだけど、延長戦とPK戦を繰り返してたどり着いた俺達にはもう余力がなかった。ウルグアイとの決勝戦で破綻し、5~6人の選手が負傷した。そしてそれからパラグアイはワールドカップに出られていない」

──エルクレスに話を戻しましょう。給与未払い問題がなかったら、エルクレスの運命も変わっていたでしょうか。
「あのような形で終わったことは残念だった。クリスマス休暇の後に財政面の問題が発生し、残念ながら俺たちは良いスタートを切ることができなくなってしまった。あの時のエルクレスは可能性がある素晴らしいチームで、そこに参加できたことを今でも誇りに思っている。練習施設も維持できなくなっていたし、そこに居ることの価値を感じられなくなった人たちが出始めたらすべてがうまくいかないものだ。スポーツ面以外のことに気が向いている選手たちがいたことも事実であり、チームとして安定しなくなってしまった」

──彼らが今4部リーグ(RFEF2部)に居ることを知っていますか?
「あれからさらに降格してしまったのかい!?これ以上落ちることはないと思っていたよ。今、彼らに手を差し伸べるために1~2年エルクレスに戻ることを考えたよ。無報酬でもいいから」

──エルクレスを1年で去り、ロシアで過ごした後にスペインに戻ってきましたね。行き先はバレンシアでした。最初はあまり歓迎されてなかったようですが...
「バレンシアにはとても良い思い出があるよ。俺のキャリアの中でも非常に大きな挑戦だった。確かにファンは最初、俺を愛してくれなかった。その数年前にヴェルダー・ブレーメンの選手としてメスタージャで2ゴールを決め、それを祝った時のことがあったからだと思う。ダビド・ナバーロは俺が"バレンシアのファンを侮辱した"と言ってたからね。エルクレスの選手としてメスタージャに行った時、彼らは俺に向かって口笛を吹いた。そしてバレンシアの選手として最初のメスタージャでの試合の時、彼らはウォーミングアップ中も口笛を吹いてた。当時の監督(ペジェグリーノ)から"最初の数試合はホームゲームでは起用せず、アウェーゲームのみの起用になる"と言われた。それでも仕事と流した汗で徐々に認めてもらえるようになった。嬉しかったね。メスタージャでの最初の試合はバイエルンとのチャンピオンズリーグだった。途中からだったけどうまく試合に入り、ゴールを決め、相手選手全員と戦った。バレンシアのファンが好むようなプレーをしていたことで、少しずつファンからの愛情を得られるようになった」

──あなたはこれまでバレンシアのシャツを着た最後のパラグアイ人です。次はあなたもよく知っているオマール・アルデレーテですね。
「そう、素晴らしい。彼は俺の息子のような存在だ。彼がプロとしてのキャリアを歩み始めた時にセロ・ポルテーニョで2年一緒に過ごした。彼はいつも俺の家にいて、俺が毎日練習場に連れて行ってたんだ。まるで息子のようにね。彼がベルリンに居た時も二人でよく話したよ」

──選手としての彼について教えてもらえますか?
「とても素晴らしい選手で、彼のような性格と気質を持った選手はそれほど多くないと思う。とても優秀なセンターバックだが、残念ながら代表チームでは左サイドバックでプレーしている。まぁ、そこでも良いプレーをできるのだけど。彼の能力が最も生きるのは左センターバックだ。代表でもそのポジションを務められるだけの非常に多くのテクニックを持っている。オーバーラップもボールタッチも非凡で、バレンシアとはすごく相性が良いと思うよ」

──バレンシアを出てからのあなたはUAE、ギリシャ、ドイツ、アメリカでのキャリアを経て、パラグアイに戻りました。
「多くの国を知り、タイトルを獲得し、友達と出会えた。サッカーには感謝している。今、友達が送ってくれる全てのメッセージを楽しんでいるよ。ちょうど今日はバレンシアでの美しい時間を思い出しながら、エベル・バネガと話したところだ。エルクレスで一緒だったトレゼゲとも話したな」

──現役引退を決めたのはどのタイミングですか?
「ここ数年セロ・ポルテーニョでプレーしてきた。まだ続けたかったが、それが叶わなかった。その時点でパラグアイの他のクラブと、ヨーロッパのクラブからのオファーがあったけど、これ以上子供たちと離れて過ごすことを俺たち家族は望んでいなかった。それからはさっき話した通りだ」

──あなたの将来の計画は何ですか?
「バケーションの後にドイツに戻る予定だ。俺がお世話になっている代理人業者と一緒に働くつもりだよ。彼らはイタリアのマーケットで非常に強く、今後はドイツとスペインへの参入を目指しているらしいんだ」

──監督としてのキャリアは考えていますか?
「ライセンスは取ったけど、監督をしている自分が想像できないんだ。そのうちボールを触るのが恋しくなるかもしれないけど、今は想像できないな」

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ネルソン・バルデス (プロフィール)

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