バレンシアCF応援サイト VCFJAPAN.ORG バレンシアCF応援サイト VCFJAPAN.ORG

VCFJapan.org is the forum for Valencianistas in Japan.

Sub Menu
Valencia CF

VCF News

元バレンシアのピーテル・フェデリコのインタビュー「バレンシアでの半年間は想像以上に良い時間だった」

RELEVOに掲載されたピーテル・フェデリコのオリンピック開催前のインタビューです。

元バレンシアのピーテル・フェデリコのインタビュー「バレンシアでの半年間は想像以上に良い時間だった」

ピーテル・フェデリコは、4種類のシャツを着る慌ただしい一年を過ごしました。最初はレアル・マドリー、次にバレンシア、そして先日移籍が決まったヘタフェ、最後はオリンピックに参加するドミニカ共和国のシャツです。しかし、ピーテルは7月の第1週、具体的には五輪メンバー招集発表の前日まで、自分がパリに行けるかどうかを知りませんでした。来季に向けた彼の去就が不透明だったためです。

しかし、彼の前にヘタフェが現れました。ボルダラス監督のチームはバレンシア以上に彼に賭け、彼は4年契約にサインをし、五輪への道が開かれました。

このヒスパニック系ドミニカ人は、生まれ育ったサンクリストバル地区のこと、バレンシアでの半年間のこと、レアル・マドリー戦後にマドリディスタから受けた人種差別的侮辱のことなどについてRelevoに語りました。


──今の気分はどうですか?あなたにとって張り詰めたシーズンが終わりました。
「とても調子が良いです。やっと所属クラブが決まり、今は落ち着いています。7月1週目までは自分がオリンピックに出られるかどうかわかりませんでした。自分としては参加するつもりでトレーニングを続けていましたが、バレンシアに残るのか、マドリーに戻るのか、それとも別のクラブに行くのか、何も決まっていなかったので、オリンピックに参加する許可を得られるかどうかも分からなかったんです」

──所属クラブの許可が下りない可能性を心配していたということですね?
「はい。プレーするクラブが決まらず、決まっても行かせてもらえるかどうかわかりませんでしたが、ヘタフェが許可してくれたので、とても嬉しかったです。ヘタフェと契約できたことを幸せに思います。そのままマドリードに住み続けることもできますし、契約期間も4年あります。ボルダラス監督と共に全力を尽くすつもりです。監督はすごく期待していると言ってくれました。一緒に仕事をするうえで、理想的な監督だと思います」

──オリンピックにはどう臨むつもりですか?グループステージのライバル、スペインは金メダルを狙うと公言しています。
「そうですね。同じように僕らも金メダルを目指します。全ての代表チームが持つべき目標です」

──スペイン五輪代表にはあなたの友人もいると思いますが、誰かと話しましたか?
「まだ誰とも話していませんが、ボルドー(スペインvsドミニカ共和国の開催地)に行ったら話すと思います。バレンシアで半年間過ごしたおかげで、ディエゴ・ロペスとはだいぶ仲良くなりました。バレンシアのロッカールームでは彼とウーゴ・ドゥロの間に座っていたんですが、二人にはとても良くしてもらいました」

──レアル・マドリーのアカデミーで育ち、メスタージャでプレーしたあなたですが、ルーツはストリートサッカーにあると聞きました。
「はい。僕はマドリードのサンクリストバルという貧しい地域で育ちました。だから近所でサッカーをするというとストリートサッカーが当たり前でした。幼い頃にそこでプレーした時の本質は決して変わることはありません。ストリートサッカーが選手としての僕の基礎になっていると思います」

──マドリーのカンテラに居た時、チームの練習を終えた後に、ストリートサッカーをするために施設から脱走していた、というエピソードは本当ですか?
「本当です(笑) さすがにフベニールカテゴリーになった時にはしませんでしたが、もっと小さい頃は、かなり抜け出してました。マドリーでの贅沢な練習を終えたら、ストリートサッカーをするために地元まで帰ってきてました。楽しかった...。対戦相手は僕らに勝つために選手をひとり多くしたり、時には僕にGKをさせたりしました。それでも良い時間でした」

──ヘタフェがあなたに賭けたこと、そしてバレンシアで継続して出場機会を得たことでドミニカ共和国から招集があったのだと思いますが、この一年をどのように過ごしましたか?
「RFEF1部リーグからプリメーラにジャンプするのは簡単ではないことは分かっていました。でも頑張ろうと決めましたし、何よりもバラハ監督からの信頼を感じられたので、自分の持ち味を発揮できたと思います」

──バレンシアでの最初の時期は「練習では大砲だけど、試合だと存在感が薄い」と言われていました。自分ではどう感じていましたか?
「はい、その通りだと思います。練習している時は多少の自由がありますが、プリメーラのフィールドはそうではありません。プレーすることはとても難しいです。でも幸運なことに最終的にはプリメーラでのプレーに適応できたと思っています。バレンシアでの半年間は、自分が最初に想像していた以上に良い時間だったと言いたいと思います」

──バレンシアに残れたらもっと良かったですよね?
「シーズン終盤にバレンシアに残れるチャンスがあると言われたのは事実です。でも、マドリーとバレンシアが一度話し合った時点でそれがノーチャンスになったことも事実です。バラハ監督は僕に満足していると言ってくれました。僕もバラハ監督と働くことにとても満足していました。素晴らしい監督です。でも、両クラブともバレンシアの状況を理解したうえで、僕を買い取らないことを決定しました。実現せず残念でしたが、僕はバレンシアでとても幸せでしたし、これからもずっとバレンシアのことは好きなままだと思います」

──バレンシアでの時間はあっという間でしたか?
「バレンシアでもっと長い時間過ごしたいと思っていました。とても短く感じましたし、最低でも1年通して過ごしたかったです。僕がバレンシアに到着した時、そこにはリーグ前半戦を素晴らしい出来で終えたチームがありました。彼らはヨーロッパでプレーするという野心を持っていました。僕も含めて全員が目指していましたし、ロッカールームでもヨーロッパカップ戦のことを話したりしました」

──ルベン・バラハ監督はどうでしたか?
「すごく選手を絞る監督ですが、若い選手たちに自信を与える監督でもあると思います。実際僕らはスペインで最も若いチームの一つでしたが、監督は僕らにいつもいつも大きな自信を与えてくれました。僕の場合で言うと、監督が信頼してくれていたということが、僕がプリメーラのサッカーを学ぶのに大いに役立ちました。監督に信じてもらえたから、僕も自分自身をより信じることができるようになったんです」

──レアル・マドリーにはどんな思い出がありますか?
「全てにおいて世界最大のクラブであるという実感が残っています。既にご承知の通り、僕はユースチームに所属し、トップチームでデビューすることもできました。夢が叶った瞬間でした。トップデビューしたのは19歳の時でした。その後、カスティージャ(Bチーム)でウイングバックとしてプレーを始めましたが、それが僕のトップチームへの道を閉ざしました。トップチームではウイングバックは採用していないからです。それにカルバハルも居ました」

──あなたはメスタージャでのマドリー戦後に、一部のレアル・マドリーファンからとても酷い扱いを受けました。ラ・リーガが調査した結果、あなたへの差別的・中傷的な発言が853,400件記録されたことも明らかになっています。あの時はどのような気分で過ごしていましたか?
「メスタージャでの試合でしたが、2023年にヴィニシウスに起こったことの影響もあり、だいぶ張り詰めた雰囲気がありました。試合は非常にスピーディーな展開の応酬でした。僕はプレーするためにピッチに出て、自分のチームのために全てを捧げました。僕はこれまでずっと、どのチームに所属していてもピッチの上では全てを捧げてきたからです。そしてその翌日からSNS上で多くの人種差別的なメッセージを受け取りました。僕は全てを閉じて、終わりにしました。大きな影響はありませんでしたが、何よりも大きなショックを受けたことは言わなければなりません。僕は、そのような人たちが変わることは決して無いと思っています。だからこそ、僕は自分の周りで起こっていることではなく、サッカーと自分のチームに集中しているんです」

──最後の質問です。オリンピックの決勝戦はスペインvsドミニカ共和国になるでしょうか?
「それ、いいですね!もちろんなります!」

関連記事
ピーテル・フェデリコの入団会見 (2024年2月)
ピーテル・フェデリコ (プロフィール)

同カテゴリの前後の記事

« トニ・ラトの父アントニオ・ラトーレのインタビュー「初めてバレンシアに負けてほしいと思っている」 元バレンシアのピッチーニがDANA被災者に3000kgの食料支援 »

VCFJapan.org

El Rat Penat

スペインのサッカークラブ
バレンシアCFを応援する
ウェブサイトです。